読了

吉田修一パーク・ライフ文藝春秋
中篇の作品が2作収められている。表題作は芥川賞受賞作品。もう一つの作品「flowers」はぼちぼち良い作品だった。ここでは「パーク・ライフ」について少し。
電車の中で、先ほどまで一緒だった知り合いが、まだ背後にいるものと錯覚し、思わず声を発し、見知らぬ女性に声をかけてしまった。その場は何もないままわかれたが、しかしその女性は、”ぼく”が昼の休憩に利用する公園を同じく利用している人だった。それから公園において、その女性との関わりが始まる。
この作品ではまず、主人公の”ぼく”に強い嫌悪感を抱いた。からっぽなのだ。まじめな好青年なのかもしれないが、からっぽ。店の接客で、たまにものすごく丁寧な対応をする店員がいるが、それが丁寧すぎると逆に不気味な印象を持つことがある。主人公に対する嫌悪感はこの感覚に似ているかもしれない。
また、主人公のまわりの人たちは、それぞれにその関係が希薄だ。主人公は思った言葉を口にせず、よく引っ込めている。何か自制するところがあり、これはやはり人と距離を取っていることなのだろう。
考えてみれば、公園では、たまたま同じ空間にいるというだけで、なんとなく他人と言葉を交わしてしまうということが生じる。「今日は天気がいいですね」。「今日は暖かいですね」。これに対する言葉は「そうですね」の一言か、あるいはまだ少しの言葉が続くくらいか。他者との薄い関係、薄い会話。
作品の主だったところが、公園での話題なので、「パーク・ライフ」かと思ったが、これはまた、主人公の生き方が、”公園での他者との関わり”のような生き方である、ということも含んでいるのかなと思った。
現代の若者はドライだとも言われているが、そのドライさを描いた作品だとはちょっと言えそうにない。ただからっぽである主人公は何なのかが、いまいちつかめない。
この作品は、悪く言えば、物語を書くことから逃げている、という印象も抱く。あちこちに中途半端さが漂っている。だからこのような作品を嫌う人は多いかもしれない。しかし、一つのテーマを持って描かれた作品として、きちんと仕上がっているということも感じる。
僕にとっては、良い作品とも悪い作品とも言えない。好き嫌いで言えば、嫌いじゃないというところかな。