昨日、京極堂シリーズの映画化の話題があったものだから、久々に『姑獲鳥の夏』をぱらぱら読んでいた。
そして気づいた。僕の思想の底辺にあるものはおそらく京極堂だ。

だいたいこの世の中には、あるべくしてあるものしかないし、起こるべくして起こることしか起こらないのだ。自分達の知っている、ほんの僅かな常識だの経験だのの範疇で宇宙の凡てを解ったような勘違いをしているから、ちょっと常識に外れたことや経験したことがない事件に出くわすと、皆口を揃えてヤレ不思議だの、ソレ奇態だのと騒ぐことになる。
(『姑獲鳥の夏』p16)

これと似たようなことを、日頃から普通に言ってたりするもんな。


姑獲鳥の夏』を読んだのは18歳の時だったかな。高校3年生。読んですぐに、見事に感化された。
そして、目指したのは京極堂だ。おそらく京極堂になりたかったんだな(笑)。
大学に進み、乱読の時期に入り、手に取る本は、小説よりも専門書。
仏教、儒教道教密教……、陰陽道修験道神道。さらには民俗学、妖怪学、心理学、精神学……。哲学も一通りふれてみたけれど、ニーチェスピノザが気に入ったくらい。どうにも西洋には興味がなかった。キリスト教イスラム教にも興味ない。逆に東洋思想には大いにはまり孟子が好きになったり、老荘思想が気に入ったり。
あと、中途半端に時間があったときは大学の図書館で、京極作品の参考文献にならい、『和漢三才図会』を読んでみたり。
いやはや、若き日の情熱は素晴らしい、か。
ただの興味でこれらの分野の本に手を出した、と一応は思うんだけど、やっぱり京極の影響は大いにあったと思う。
のちに気づいたけど、”京極堂に”なりたければ、小説を丹念に読み、京極堂の思想をくみ取り、吸収すれば良かったのかも知れない。京極堂に感化されていたので、ある程度はこの作業を無意識にしていたとは思う。
乱読時期に僕がやったのは、正確には、”京極堂のように”なりたかったための行動か。
当然のことだろうけど、京極堂のようにはなれなかったけどね。いや、なれなかったといってみるが、まだ、作中の彼の年齢よりは下か。
今はもう静かに小説を読んでいる方が好きです。