唐突に創作の話。
昨日、価値観が云々って、中途半端な書き方をしていたけれど、この価値観、世間一般に認められている価値観と食い違いがあると、やっぱり世間一般で流行っている物事が面白くないわけで。
面白くないなぁ、面白くないなぁ、って欲求不満になる。
大方の人が言っている通り、創作の出発点は現実逃避なんだと思う。そして欲求不満をなだめるための手段でもあるのかな。
これは、ライトノベル系の小説を書いている小説家志望の友人と意見が一致していて、彼の場合は、なかなか深刻で、もう現実には興味ないよ、ということまで口にしている始末。
物語を作るとすれば、作者は自分の思い通りに作ることが出来るわけで、そうすることによって、思い通りにできる世界に逃避する、というのが一般的な逃避としての創作なんだろうか。小説家志望の友人はどうもこのタイプ。
しかし、僕の場合は違っていて、おそらく現実逃避の感じもあるかも知れないけれど、どちらかと言えば、自分の価値観を提示しようとしているのだと思う。
これは僕が大衆文学を目指しているのでなく、あくまで純文学を志向していることも関係していると思う。
文学の多くの部分はきっと作者の”心意気”であったり”志”だという気がする。作品に作者の”志”をぶつけるんだ。
このあたり、エンターテイメント作品だと、物語を開かなければならないとか、物語を形づくるためのいろいろな堅苦しい縛りがあるので不向きであるような気がする。それゆえ、エンターテイメント作品などはなかなか”文学”に入れてもらえなかったりするのかも。純文学の方が自由にできる。
なぜ小説を書いているのか。何か書きたいことがあるのか。
などと尋ねられると、書きたいことは特にない、強いて言えば、理想の小説を作ろうとしている、というようなことを答えることが多かったけれど、これはどうも違うような気がしてきた。
書きたいことはやはりあるんだと思う。
それはさっき書いた、世の中と食い違っている自分の価値観。
自分が書いてきたものを、ぼつぼつ思い返してみると、どうやら、世の中をもっと疑えよ、というようなことを言っている気がする。
世間で価値のあるものと言われているものに、本当に価値があると思う? 素晴らしいと言われているものでも、無条件で受け入れるのでなく、本当にそれが素晴らしいと思えるのか疑って見ろよ。とか、常識だと言っていることでも、おかしいなと思うこともあるでしょ? おかしいと思うのならおかしいと言おうよ、とか。
そしてあとは、世の中はあまりにも不確かすぎるよ、というようなことを、描こうとしているんだと思う。もうこれからは戦前戦後の時みたいに、それまでの生き方を完全否定されるような世の中の価値観の転換は起こりにくいだろうけれど、日常の中の些細なところで価値観の転換がおこる場合はあると思う。そのきっかけは事故かもしれないし病気であるかもしれない。信じていることの不確かさ。これは嘆いているのではなくて、そういった考え方も持っていたらどう? っていう感じで描こうとしているんだと思う。
こんな事を作品に盛り込もうとするから、ストーリーができにくくて、特に起伏のない物語に仕上がることが多い。
でも一方では、あえてそんな起伏のない物語を目指している感もある。村上春樹の最初の短篇集『中国行きのスロウ・ボート』に収められている『午後の最後の芝生』がかなり好きで、この作品の感じを目指している部分は確かにあると思う。でもこの作品は短篇だ。その短篇の雰囲気を長編で描こうとしていることにそもそも無理があるのかもしれない。