三田誠広の『こころに効く小説の書き方』を読んでいると、純文学、中間小説、ジャンル小説の違いを説明してあって、なるほどねって思った。なかなかわかりやすい。
この説明には円が用いられている。円の中心部分が純文学の領域。その外側の層が中間小説。さらにその外側にジャンル小説の層。としてある。
推理小説歴史小説SF小説ファンタジー小説等々、その作品が種類でわけられる小説は、この3つの層を縦断して存在しているとしてある。
と、書いてみても実にわかりにくいはず。図を見れば一目瞭然なのだけど、言葉で説明しようとすると難しい。
僕の解釈もふんだんにまじえて補足してみると。
純文学、と呼ばれる領域にある作品は、どのジャンルにも属さないものであり、エンターテイメント性も何もない、何も起こらないような作品。それは実験的手法で描かれてあったりと、前衛的であるもの。文学的と呼ばれるものはここに存在している。
そこからエンターテイメント性を持ったり社会性を持った小説になると、それは中間小説の領域に入っていく。文学的な要素を持ちながらエンターテイメントであるというような作品――直木賞受賞作でも文学的だと言えそうなものは、純文学と中間小説の境界部分にでも位置しているものなんだろう。
エンターテイメント性やら、一つの世界をもっとマニアックに追求すると、それはジャンル小説の領域に入っていく。富士見系であったり、講談社の文芸誌「メフィスト」から派生した「ファウスト」で書かれているような作品がこの領域に入ってくるんじゃないのかな。
こうしてみると、一つのジャンルにおいて性格が違う作品があるというのも説明がつく。ミステリ小説でも例にとると、松本清張のミステリ作品は中間小説に位置していながらも、純文学の領域に近いものだと思える(実際松本清張芥川賞受賞作家だし)。一方で、80年代終盤におきた新本格ミステリ・ムーブメントで続々登場した作家が書いていた、マニアックすぎるほどの本格ミステリジャンル小説の領域に寄った作品なんだろう。
芥川賞受賞者をはじめとする一般的に純文学作家と呼ばれる作家であっても、どこかのジャンルにあてはまる作品を書いているのが実状であるはず。純文学ということにこだわって書いている作家って誰かいるかな、と思ってみると、そういえば、平野啓一郎がたまにわけのわからないものを書いていた。『高瀬川』に収録されている『追憶』という作品なんて、どうかと思うが、純文学の志し高き作家だったのね。