昔、大学で受けた哲学系の講義で、教授が「無宗教であることは非常に危険」というようなことを言ったのだけど、それがどうしてなのかなと気になってた。おそらく、そう言ったことの理由は講義中に述べられたと思うのだけど、その部分は忘れている。たまにその言葉を思い出してはどうしてかなと気にしていた。
それについて、今日、車を運転しているときにふと思いついた。
これは”無宗教であること”が危険なのではなくて、”無信仰であること”が危険なのではないかと。
宗教というのは、信仰の一つの対象、とでも言えばいいのかな、なんと言えばいいか難しいけど、信仰の一つの方法であるはず。既存の宗教に対して、まったく興味がない場合は、自然と無宗教ということになってしまう。自然の流れで無宗教であるのだけど、それに対して危険だと言われるのは、ちょっと変な話だなと感じてしまう。
これはやはり無信仰であることが危険なのだ。
なぜか。
と言いながら、明確な回答を用意しているわけではないのだけど、ぼそぼそと言ってみれば、無信仰の状態、なにも信じるものが無いという状態は、”糸の切れた凧”のようなものだという気がする。ふわふわと存在が定まらず、空中でさまよっている状態。
これに対して、糸でつながった凧は、空中でしっかり定まっている。これが信仰がある状態と言える。
では、宗教に興味がないのに何を信じればいいのか。
一番手っ取り早いのが、自分を信じればいい。
小学校時代、仲間うちである言いぐさがはやった。今考えればそれは結構哲学的なことだったなと思う。簡単なやりとりなのだけど、ある人に対して、「そんなことをして、おまえはいったい何様だよ」と問いかけたときの答えが、「俺様だよ」というものだった。これが流行フレーズのようにしばらく飛び交っていた記憶がある。
これに似たようなものが、中日の落合監督の”俺流”なのかな。
信仰対象は”俺教”、といえばなんだか陳腐だけど、そんな感じで自分を信じればいいのだと。
つまり、無信仰であるという状態は、自分さえも信じていないようなもの。それはやはり危険でしょう。自分さえ信じず、他になにも信じるものがなければ、先述の糸の切れた凧ではないけれど、世に流されるだけ流されて、わけのわからないところまで行ってしまうことだってある。


人と話しているとき、もう少し自信を持てばいいのに、と思うことが多々あるので、それも含んで、なんとなくこんなことを運転中に考えてた。
自分の可能性を自分で否定しても仕方ないわけで、せめて自分だけでも自分を肯定してみようよ、というわけです。
無宗教が危険、ということからはっきりしたまとまりがあるわけでなく違ったところに転がってきたけど、本当はこれからまだ、先日の大河ドラマ坂本龍馬が言ったセリフをふまえて、”信じる”ということについてだらだら書き進めるはずだった。でもそこまで書く余裕がないのでやめときますけども。


ところで、”信じる”ということがテーマの小説ってなにかあるかな。ふと気になった。
なにかあったかなーと、首をメトロノームのように振った結果、ホーマー・ヒッカム・ジュニアの『ロケットボーイズ』がわりと強く”信じる”ということが描かれているような気がした。はじめは”信じる”がテーマの小説なんて無いなと思っていたのだけど。